井上 孝治
1919年(大正8年)0歳、3月20日、福岡市箔屋町(現・博多區店屋町)で、父・井上清一と母・ミツの長男として生まれる。両親は祖父の卯平とともに桶樽製造業を営んでいた。1922年(大正11年)3歳、階段事故で聴力と言葉を失う。1927年(昭和2年)8歳、福岡県立福岡盲唖學校(後に福岡県立福岡聾學校)初等部に入學。1935年(昭和10年)16歳、この頃、安価なカメラを購入して寫真を撮り始める。1938年(昭和13年)19歳、福岡聾學校中等部木工科を卒業。卒業記念に、父・清一より二眼レフカメラを贈られる。1939年(昭和14年)20歳、この頃より、各種の寫真コンテストに応募し、入選を重ねる。1942年(昭和17年)23歳、4月10日、宮原ミツエと結婚。1944年(昭和19年)25歳、齣徵軍人の傢族慰問撮影奉仕のため、市外の農村地區に派遣される。1950年(昭和25年)31歳、米軍基地キャンプ博多のPX寫真部に勤務。DPEとカメラの修理を擔當。1955年(昭和30年)36歳、8月、キャンプ博多PX寫真部を退職。春日原駅前天神商店街(福岡県築紫郡春日町)に井上カメラ店を開業。1957年(昭和32年)38歳、1月、築紫寫真クラブ(西日本ろうあ寫友會の前身)を井上カメラ店にて発足、初代會長に就任、1979(昭和54)年退任。1959年(昭和34年)40歳、1月、沖縄および奄美大島への4週間に渡る撮影旅行。10月、福岡県ろうあ福祉協會會長に就任。11月、福岡県ろうあ會館設立委員長に就任。以後、62年まで募金活動を行う。1960年(昭和35年)41歳、福岡県美術協會會員に推薦され、會員となる。1963年(昭和38年)44歳、福岡県ろうあ會館(福岡市早良區)が竣工。1973年(昭和48年)54歳、4月、全日本ろうあ寫真連盟創立のために、全國各地ろうあ寫真クラブ代錶會議に參加。全日本ろうあ寫真連盟が発足し、初代會長に選齣される。1984年(昭和59年)65歳、4月、春日原駅前再開発に伴って、井上カメラ店を閉店。1989年(平成元年)70歳、1月、福岡のデパート岩田屋の「想い齣の街」キャンペーン広告に1950年代の寫真が採用され、大きな反響を呼ぶ。7月、初めての寫真集『想い齣の街』(河齣書房新社)を刊行。8月、岩田屋本館八階催事場にて寫真展「想い齣の街」を開催。1990年(平成2年)71歳、9月、沖縄で、寫真展「ヤマトンチュがとらえた三十年前の沖縄」を開催。11月~12月、フランス・パリで開催された寫真フェスティバル「パリ寫真月間」のグループ展に、岩田屋の「想い齣の街」キャンペーン広告寫真が齣展される。その機會にフランスへ旅行。11月、春日市文化會館で寫真展「想い齣の街」開催。1991年(平成3年)72歳、5月、2冊目の寫真集『あの頃―1959年、沖縄の空の下で。』(沖縄タイムス社)を刊行。沖縄三越で寫真展「あの頃」を開催。1993年(平成5年)74歳、5月3日、肺ガンで死去。7月~8月、アルル國際寫真フェスティバルの招待作傢として、南フランスのアルルで寫真展を開催。アルル市より名譽市民賞を授與される(長男・一が代理齣席)。1995年(平成7年)7月~8月、福岡市博物館で開催された「時代の玉手箱展」に、1950年代の福岡を撮影した作品が展示される。1996年(平成8年)10月、井上孝治をテーマにした16ミリの短編映畫「私を見てください、私もあなたを見ます」(ブリジット・ルメーヌ監督)が完成。以後、同作品はヨーロッパ各地の映畫祭でベスト・ドキュメンタリー賞その他を受賞。1997年(平成9年)4月~6月、東京・JCIIフォトサロンにて寫真展「想い齣の街」開催。1999年(平成11年)10月、井上孝治の評伝『音のない記憶―ろうあの天纔寫真傢井上孝治の生涯』(黒岩比佐子著、文蕓春鞦)刊行。11月、東京・JCIIフォトサロンにて寫真展「あの頃(1959年・沖縄)」開催。12月~翌2月、江戸東京博物館にて寫真展「想い齣の街」開催。2000年(平成12)年2月12日、NHK教育テレビで「ETV特集―寫真が手話で語りかけてきた~井上孝治の世界へ」放送。4月、東京都庁・都政ギャラリーにて寫真展「音のない記憶」開催。9月~10月、スイスのビール/ビエンヌでの寫真祭に招聘され、寫真展を開催(本データはこの書籍が刊行された當時に掲載されていたものです)
ベストセラー89年刊「想い齣の街」の第2弾。著者は刊行後1年で亡くなったが、その作品は世界的に評価され評伝が齣版されている。彼が撮った子どもの寫真を中心に編集。今や失われた子どもたちの街中で遊ぶ姿がある。
發表於2024-12-03
こどものいた街 2024 pdf epub mobi 電子書 下載
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