藤原 通憲(ふじわら の みちのり、嘉祥元年(1106年)? - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代末期の貴族・學者。藤原南傢の末裔、蔵人藤原実兼の子。祖父は大學頭の藤原季綱。祖父の血を引いた通憲も學問に勵み、當世無雙の宏纔博覧と稱された。一時高階経敏の養子となったが、鳥羽上皇の院政期に復姓した。妻は高階重仲の息女で、間にできた子息は、藤原俊憲、藤原貞憲、藤原是憲の三人。その後、後白河天皇(雅仁親王)の乳母の紀伊局と結婚。天養元年(1144年)、7月22日少納言の時に齣傢しており、以後に名乗った法名の信西(しんぜい)の方が有名。
鳥羽上皇に仕えた信西は、學問で名を挙げ、「本朝世紀」、「法曹類林」の編纂も行っている。後白河天皇の乳母(紀伊の局)の夫であることから、後白河の即位を実現させた。平清盛ら武士の起用も進め、1156年7月鳥羽上皇が亡くなると、保元の亂が起こると、源義朝の獻策を積極採用して、夜襲作戦を採用した。結果、後白河天皇・信西・清盛側が勝利を収める。死刑製度を復活させて、源為義らを処斷した。また、摂関傢の弱體化と天皇親政を進め、新製七カ條を定め、記録荘園券契所を設置し、荘園の整理を行うなど、絶大な権力を振るう。その後、二條天皇が即位し、後白河院政が始まると、藤原信頼や源義朝らの反対勢力が結集し、1159年平清盛が熊野詣に齣かけた留守にクーデター(平治の亂)が起こる。信西は義朝・信頼の軍勢に追われ、伊賀の山中で観念し、入定したところを源光保に発見され、掘り齣され首をはねられた。(クーデターは清盛によって鎮圧され、後の平氏政権の基礎が固まった)
學問に優れ、藤原頼長と並ぶ當代屈指の碩學として知られた。『今鏡』でもその纔能を絶賛する一方で、陰陽道の傢の齣でもないのに天文に通じたがために災いを受けたのだと評されている。
六國史後を継ぐ史書として、鳥羽上皇(1103年-1156年、天皇在位1107年-1123年)の命により、藤原信西が編纂。成立は1150年-1159年。『史官記』『外記日記』ともいわれる。全20巻。
『日本三代実録』に続くもので、宇多天皇の877年以降、近衛天皇(在位1141年-1155年)までを扱う。諸傢の日記・係図を原文のまま時代順に整頓したものであった。信西が平治の亂(1159年)で死んだため、未定稿に終わったうえ、多くが散逸している。現存しているのは935年~1153年のうち一部であるが、同時代の重要な史料である。
發表於2024-11-26
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圖書標籤: 歷史 日本史學 國史大係 大
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